志村けんさん。
私の中では、ちょっと特別な存在に感じる方でした。
というのも、、、私の旧姓は「志村」。
子供の頃はドリフターズ全盛期!
自己紹介する度に
「志村だってー!志村けんだー!!けんー!けんー!!」
とほぼ100%反応されるのが、すごくすごく嫌でした。
別に、変な名前でも何でもないのに、「志村けん」がいるからこんな風にからかわれるんだ。
と、こども心には結構傷ついていて、恨む気持ちもあったんです。
でも、その後も変わらず活躍を続ける姿と共に、志村どうぶつ園で垣間見えるお人柄を見て、あんなに尖ったお笑いをやられるのに、ものすごく真面目で優しい方なんだなぁ、と知って、逆に同じ姓であることが誇らしく思えるようになりました。
だから、今回の訃報を聞いた時、とても心がザワつきました。
遠い親戚のおじさまが亡くなられたような気分になったんです。
その後、様々な特集が番組などでも取り沙汰されていましたが、何となく「亡くなったことで美化される」感じを見る気になれず避けていました。
でも、「志村どうぶつ園」だけは私の中で特別な番組だったので、そこで初めてまともに亡くなった後に語られる志村けんさんを見ました。
エンターテインメントに誠実な方だったこと、
どんな人にも謙虚に接していたこと、
周りの人をHappyにさせる心遣いにあふれていた人だったこと、
が、よくわかりました。
そして、もう亡くなられているのに、あの番組の中ではずっと志村さんが生き続けているような不思議な感覚を持ちました。
まだ亡くなられて日が浅く、到底受け止めきれていない出演者やスタッフの皆さんの気持ちを推し量るとやるせない気持ちにはなりましたが、一方で、志村さんの精神・魂は番組にしっかり根付いていて、決して無くなるものではない、と思えたのです。
話は飛びますが、、、
今年、「我思うゆえに我あり」で有名なデカルトの『方法序説』を読み進めています。
その中で出てくる思想として「心身二元論」があります。
「心(精神・魂)」と「身体」は別のものであり、「身体」は有限だけど、「心(精神・魂)」は無限のものである、という思想です。
そして、上記の「我思うゆえに我あり」でいう「我」とは「精神」のことであって、「我」は「身体」がなくても存在する、と言われているのです。
今、目の前にある姿形あるものにしか実態を感じられない人が多い、多くの日本人にとってはかなり理解しがたい考え方だと思います。
私もはじめこの本を読んでいても、全く実感として感覚がわからず、理解ができない状態が続いていました。
でも、今回の志村どうぶつ園の番組を見ていて、あぁ、こういうことなのかもしれない、と少し実感としてつかめた気がしました。
志村けんさんの身体はもうなくなってしまったかもしれないけど、その精神は確実に番組の中に受け継がれていくんだろうな、
姿形は見えなくても、スタッフの皆さんの中でその精神は生き続け、視聴者もその存在を常に感じながら番組を見ていくのだろうな、
そう感じられたからです。
価値あるものとして受け継がれいく精神を育てる生き方をしていきたいな、今回の番組で志村さんの生き方を見て、そんな風に思いました。
志村けんさん、ご冥福をお祈り致します。
コメントを残す